フェノールと近代外科の夜明け:リスターが切り拓いた「消毒」の歴史

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現代の医療では、手術室の清潔保持や器具の消毒は当たり前のこととされています。しかし、19世紀の外科手術は今とは全く異なり、むしろ「感染との戦い」と言える状況でした。手術が成功しても、患者が敗血症で亡くなることが珍しくなかったのです。

この流れを変えたのが、イギリスの医師ジョセフ・リスター(Joseph Lister)でした。彼は、「フェノール(石炭酸)」という化学物質を活用することで、手術後の感染率を劇的に低下させることに成功したのです。

現代では、フェノールは劇物として厳重に管理される化学物質ですが、その昔は「医療を救う奇跡の薬」として外科手術の現場で用いられていました。本記事では、リスターがフェノールにたどり着いた経緯と、その後の医学への影響について詳しく見ていきます。

フェノールとは?

フェノール(C₆H₅OH)は、ベンゼン環にヒドロキシ基(-OH)が結合した有機化合物で、特徴的な刺激臭があります。かつては「石炭酸」と呼ばれ、石炭を乾留する際に生じる副産物として得られていました。

この物質にはタンパク質を不溶化があるため、現在でもDNAのフェノールクロロホルム抽出などの分子生物学実験に用いられます。ただし、タンパク質を変性させる強い作用があるため、薬剤師国家試験でも「粘膜に使用してはいけない薬品」として広く知られています。

現在の日本では、フェノールは劇物指定されており、一般の人が簡単に手にすることはできません。しかし、かつては手術室で命を救うために使われていたというのは何とも興味深いと感じます。

フェノールの着想について

1. 19世紀の外科手術と敗血症の脅威

19世紀半ばの外科手術は、現代の医療水準から考えると非常に危険なものでした。特に問題となったのが、敗血症(はいけつしょう)です。手術後、患者の傷口から細菌が侵入し、体内で感染が広がることで死に至るケースが後を絶ちませんでした。

当時は、まだ「細菌が病気を引き起こす」という考えが広く受け入れられておらず、医師たちは手を洗わずに手術を行うことも珍しくありませんでした。「経験の証」と考えられ、汚れた器具を使い回すことも当たり前だったのです。

2. パスツールの微生物説との出会い

この時期、フランスの科学者パスツール(Louis Pasteur)は、「病気の原因は細菌(微生物)にある」という画期的な仮説を提唱していました。彼の研究によると、発酵や腐敗は微生物の働きによるものであり、それを防ぐには微生物の増殖を抑えることが重要だと示されていました。

リスターは、この考えに強く共感し、「もし手術後の傷口が細菌による感染で悪化するのなら、それを防ぐ方法があるはずだ」と考えました。

3. 街の下水処理からヒントを得る

ちょうどその頃、イギリスでは下水の悪臭を軽減するために石炭酸(フェノール)が使用されるようになっていました。リスターはこの事実に注目し、フェノールが死骸の腐敗を防ぐ効果があることを確認しました。

「フェノールが腐敗を防ぐのなら、手術の傷口の感染も防げるのではないか?」

この発想が、彼の新たな試みにつながったのです。

リスターのフェノール消毒法

1865年、リスターはフェノールを用いた消毒法を実際の手術に導入しました。その方法は次のようなものでした。

1. 手術器具や医師の手をフェノール溶液で消毒

2. 傷口にフェノールを塗布し、フェノールを染み込ませたガーゼで覆う

3. 術後も定期的にフェノール消毒を行い、感染を防ぐ

この手法により、それまで90%近くの死亡率だった外科手術後の感染症が、15%程度にまで激減しました。この驚異的な結果により、リスターの手法は急速に広まり、外科手術の常識を塗り替えていったのです。

フェノールのその後――劇物としての扱い

リスターの消毒法は画期的でしたが、フェノールは非常に刺激が強く、皮膚や粘膜を傷つける性質があります。そのため、やがてより安全で効果的な消毒薬(エタノールやヨードなど)が開発され、フェノールは医療現場での使用機会を減らしていきました。

現在では、フェノールは劇物指定されており、厳格な管理のもとでのみ使用が許可されています。これは、リスターが使った頃にはまだ知られていなかった毒性や人体への悪影響が明らかになったためです。

今や「取り扱い注意」の化学物質となったフェノールですが、その歴史をひも解くと、「かつては人類を感染症から救った英雄的な物質だった」と考えると、何とも不思議な気持ちになります。

おわりに――科学的思考が生んだ革新

リスターが成し遂げたことは、単なる偶然の発見ではなく、科学的思考に基づいた仮説検証の成功例でした。

• 敗血症の原因を分析(手術後の感染)

• パスツールの微生物説を応用(細菌が病気を引き起こす)

• 街中の下水処理をヒントにフェノールに着目

• 実験を重ねて消毒法を確立し、実際の手術で検証

この流れは、のちのペニシリンの発見や現代の滅菌技術の発展にもつながっていきました。

今では消毒は当たり前のものですが、その背景には、「見えない敵と戦うために科学を活かす」というリスターの挑戦があったのです。

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